おもしれー女になりたい

すぐ自分のことだと思う。あの人が嫌われるのが怖いって言ったことも、あの人が部屋を見ると性格が分かるって言ったことも、あの人が女性芸人に求めることも、全部自分のことだと錯覚してしまう。でも本当は自分の中に少しだけあったものを上手く言語化されていただけだということにも気付き始めた。憧れの人は普通の人とは少し変わった考えを持っていたりちょっと変わった行動をしていたりする。その「変わったこと」に憧れてしまうこともある。でももともと私とその人は違うことを知っていなくちゃいけない。

 

ファンとは厄介なものだと思う。特にファンに向かって割と本音を話してくれる人には他の好きなものとは違う感情を抱いてしまう。「共感」はもっと厄介なものだと思う。自分しかそんなこと考えてないんじゃないかと思うことに寄り添ってもらうともう自分はあの人と同じ考えの持ち主だと錯覚していまう。でも結局それはマイノリティの中のマジョリティに過ぎないんだと思う。だからこそ多くの人から支持されるし発信する場があるんだから、そりゃそうだ。全ての感覚が同じ人もいないわけだし。

 

中学生の頃、星野源さんの「働く男」を読んだ。そこではいくら自分の好きなアーティストでも全てが自分好みの曲とは限らないといった旨の記述があったと記憶している。結局いくら波長があっても他人は他人。考えが全て同じ人なんていない。でも、こんなシンプルなことでも、なぜかこの事実を忘れてしまうことがある。というか、難しい。大好きな人が自分と少しでも考えが違うとちょっと落ち込んじゃうし、好きな人同士で意見が割れてたらもうどうしたらいいのか分からない。私の意見って結局好きな人の意見だったりする。

 

人に共感する力はもちろん大切で良いことだけど、次第にそれが「あの人は私と似てるから」と一括りにするのは違う。逆にそういう考えを持たなきゃいけないよってわけでもない。そこはちゃんと線引きしなきゃなと思う。でもこの線引きがめちゃくちゃ難しい。知らず知らずのうちに憧れの人から影響を受けまくっている。

 

星野源ANNで星野さんと若林さんがトークしているのを聴いたとき、こういう感覚は同じだね、でもここはちょっと違うねといったやり取りがかなり印象に残った。同じこと考えてたんです!のときの高揚感は全く関係ないのに聴いてて楽しかった。でも仮にこの会話に私が加わるとする。多分、おもしれー女とはならないと思う。私の思想はあの2人を越すことはないと思う。それは人生経験の差もあるけど、やっぱり私だったら若林さんから影響を受けてることによって、想定の範囲を超えるような話はできないんじゃないかと思う。(すごく言語化するのが難しい)そう思うと、なんかちょっと寂しさもある。

 

つまり私には何もオリジナリティがないんじゃないかと思うわけだ。行動がほとんど何かに影響されている感じがしてなんだか満足いかないことが多い。何か始めようと思っても誰かがやってたな〜と思うとなんか嫌だ。0から1を作れる人ってすごい。あーあ。おもしれー女になりたいな〜